京都府南部 東一飲みのお正月のにらみ鮒

京都のお正月は、おせち料理と一緒に「にらみ鯛」と呼漏洩塩焼きの尾頭付きの鯛が並びます。今はそのと滓にする居宅は狭い余程思いますが「よう、おにらみやす」と、三が日は箸をあと払いない仕来りです。
おお祭りには鯛ですが、にらみ鯛ならぬ「にらみ鮒」でお正月を祝う地区があります。京都府南部、久マウンテン町(くみやまちょう)の「東一飲み(ひがしいもあらい)」地区は、近くに且つて湖のように大幅「巨椋池(おぐらいけ)」が広がり、様々な淡水魚に恵まれ、漁業が盛んであったことから、豊かな川魚の食文化が今も受諾継がれています。代々東一飲みに住み続ける鵜ノ口家17代目、鵜ノ口彦晴さんに、にらみふな鮒を中心にするお正月や川魚の話を伺いました。

巨椋池とともにある東一飲みの歴史

江戸時代の巨椋池(wikipedia一倍)

「一飲み」と書いて、なぜ「いもあらい」と読むのか。鎌倉幕府がダイジェストした吾妻鏡、平家物語まどに「芋洗」「いもあらひ」と記され、古くから交通や軍事の重要な位置を占めていました。
三方を巨椋池に囲まれ、入口は一方だけ、つまり壱の口であった利得「芋洗」を「いもあらい」としたする説や、豊臣秀吉が宴を催し、流した短冊を鯉が一飲みに飲み込んだからなことはという言い伝えも入り取り散らかし、諸説あるものの、今もってクリアーなことはわかっていません。芋洗という地名になった粋さつも含め、興味が尽きません。

一飲み地区は、東一飲みと西一飲みに分かれていますが、巨椋池の西部堤防上にある東一飲みは漁業を主としながら農学も営み、西一飲みは農学を専らとしてきました。伏見区、宇治市、久マウンテン町に広がる巨椋池は、度々の氾濫で人々を苦しめましたが、一方で川魚の豊かな漁場として恵みももたらしました。
鮒、鯉、うなぎ、なまず、どじょう、すっぽんなど多種類の魚があがり、東一飲みは特別な漁業権を嘉賞られていました。その大元総量であり大庄屋であった山田家の住宅が「国登録有形文化財」の制限を受諾、ざっと公開されています。
巨椋池は干拓によって消滅しましたが、渾名前川と呼漏洩巨椋池駆水幹線と古川の二つの流れの間にあり、民家が軒を並べる東一飲みの集落は、巨椋池とともにあった歴史や暮らしに思いを巡らすことができます。

にらみ鮒は、ことこと三時間


ぴんぴん跳ねる大幅鮒は、1週ほど水槽で泳がせて泥を吐かせます。斯うすることで、気になるにおいや、あくがなくなります。
鵜ノ口さんが、朗然たるな包丁さばきで鮒をおろして粋ます。最初にうろこを引きますが、魚という表現がぴったりの美しいものでした。内蔵を取る時「苦玉(にがだま)」と呼漏洩胆のうを苦しめると1匹全体が苦くなりどうしようも切れるので、慎重に取り出します。味がしみこみやすいように、おなかと背に飾り包丁を入れます。

鍋に竹で組んだざるのようなものを敷き、その上にきれいにさばき終えた鮒を並べます。この竹を敷くことで、焦げ付きにくくなります。使わない時はときたたんで格納しておけるすぐれ物です。ひたひたにお酒を入れて火にかけます。煮えてきた所で丁寧にアクをすくうのですが、水槽で泳がせた鮒からは、主にアクが出ませんでした。砂糖と醤油を入れたらことこと、焦がさないようにゆっくり炊きます。だんだん良い悪臭が漂ってきます。

お正月は、きれいに炊き上がった尾頭付きの大幅鮒を、銘々に一尾ずつお膳につけてお御祭します。幸いにして「子」が入った鮒がついたら大打撃。「鯛一倍旨い。子どもも快く食べる」斯うです。鵜ノ口さんは「炊きたても旨いけれど、一日おいた鮒も旨い」と言います。そして「残った頭に番茶を注ぐと、これが尚又旨い」のだ斯うです。
もろこの天ぷら、もろこの甘露煮が入った海苔巻きや押し寿司、型押しだんご、久マウンテン町の特産品の淀大根の炊いたものなど、手間を惜しまず、丁寧につくられた個々の家の味は、毎年のお正月、そして日毎に食べても食べ飽きない美味しさがあります。

成分を余す所なく使い、個々の部分の味を楽しむ。これは現代においては、高度で豊かなことだと感じます。それを、声高く宣連絡こともなく、普通に同じことが可能暮らしが東一飲みにはそれからいます。鵜ノ口さんは「古川で泳いだり釣って来た魚を料理するばあちゃん、御母さんの姿することを見て育ちました。私は川魚で育って来ました」と笑って話しました。漁具や農機材などを格納する建物は、りっぱな梁が通り、天井に川魚の煮炊きに使うざるなどがかかっています。川魚漁は閉じても、その知恵や味わいは今も暮らしのなかで引き継がれています。

東一のふる里を学び、楽しみながら継承する


鵜ノ口さんのお宅の前は古川です。川の付近の草刈りや掃除など、地元の人や子どもたちの通路を少しでも美しく、楽しくした余程いう思いからです。美しい白の椿は毎年、初釜に使ってもらったり、水槽の魚を子どもたちが興味深くに見に来たり、小さいなあたたかい交流が芽ています。
平成22年に山田家が文化財に登録されたことをきっかけに、この歴歴史的な建物の活用と、自分たちが住んでいるふる里、東一飲みについてもっと学び、みんなで知ろうと「東一飲みのふる里を学ぶ会」が平成24年に結成されました。現在27名の成員が年間通して様々な活動にかかわっています。会長を務める片岡清嗣さんも17代目です。「農学と違って川は、ここまでがうちのもの、という休止期りがありません。ところ構わずみんなで共有しています。斯ういうことが本拠にあって、洪水が起きた時も力をあわせてきたから、この東一飲みは昔も今も、住んでいる家が主に残っているのだと思います」と話されました。

在りし日の巨椋池(wikipedia一倍)

巨椋池と川魚漁。その深い和つきが生んだ住民の結束と、文化や知恵はこういう所が源泉にあるだと深く感じました。
個々の居宅の、個々のかたちのお正月。新年を接待、京都の町並み、暮らしと文化が継承されますよう、そしてすこやかな年となりますようお祈りし、建都も尚尚京都の企業としての役割を果たせる哉まいります。